『リバーズ・エッジ』平坦な戦場で彼ら(彼女ら)が生き延びる方法

『リバーズ・エッジ』平坦な戦場で彼ら(彼女ら)が生き延びる方法

あらかじめ失われた子どもたちの物語

『リバーズ・エッジ』平坦な戦場で彼ら(彼女ら)が生き延びる方法

岡崎京子が休筆して20年以上が経ちます。 しかしその間も、岡崎京子の作品群は復刊や新装版の発売を続けています。 2012年『ヘルタースケルター』の実写映画化を皮切りに、2018年『リバーズ・エッジ』、2019年『チワワちゃん』と映画化され、20年以上も前に書かれた岡崎京子作品はいまなお時代の需要に答え続けています。 なぜ今現在も、岡崎京子の作品が注目を集め続けているのか? 代表作『リバーズ・エッジ』を紐解きながら、考察していこうと思います。

 

虚無感と閉塞感…物語の背景となる90年代とは

『リバーズ・エッジ』は1993年雑誌CUTiEで連載され、その翌年の1994年に単行本が刊行されています。

同じく、雑誌CUTiEにて『リバーズ・エッジ』の前に連載されていたのが、1993年に刊行された『東京ガールズブラボー』でした。この作品は、80年代サブカルチャーの最盛期を生きるアッパーな登場人物たちに彩られた作品になっています。バブル期に生きる若者たちの音楽やファッションなどの風俗描写が散りばめられており、言い方を変えれば〝生に対するありとあらゆる快楽を享受し肯定した時代〟を描いていました。

対して、『リバーズ・エッジ』は〝若者の虚無感と閉塞感を描いた、様々な社会問題を背負った登場人物たち〟の物語になっています。
『東京ガールズブラボー』から『リバーズ・エッジ』への作風の変化は、まさに作者の転換点だったのではないでしょうか。

この作品のモチーフとなった社会現象は、まさにバブル崩壊後の1990年代の日本社会そのものだ。そもそも岡崎がこの漫画を描いた時代は、あらゆる意味で戦後日本の転換期と言われている。リバーズ・エッジが発表された翌年、1995年は「阪神・淡路大震災」とオウム真理教による「地下鉄サリン事件」が勃発し、日本が根底から揺らいだ年だ。
引用元:https://www.businessinsider.jp/post-162137

『リバーズ・エッジ』は、90年代におけるバブルの崩壊、サリン事件、阪神大震災という時代背景を背負っているかのように、様々な記事で書かれています。これはほんとうでしょうか?

バブル崩壊の影響によって自殺者数が急増したのは、銀行や企業の倒産等が多発することになった1997年の翌年のことでした。また、引用した記事のようにサリン事件、阪神大震災は1995年と、『リバーズ・エッジ』の刊行より後になります。

『リバーズ・エッジ』は読者によって賛否が分かれる作品という一面があります。それは、彼女の作品を高く評価している人ほど、好き嫌いをしっかりと明言している所にも現れていると思います。『リバーズ・エッジ』が描いた時代や世界を正確に捉えるには、その人達の言葉が一番の手掛かりになるのではないでしょうか?

以下、映画化に当時の、よしもとよしとものインタビュー記事から引用します。

俺は当時から言っていたけど、岡崎京子の作品の中で『リバーズ・エッジ』は好きじゃなかったんです。その後に描かれた『チワワちゃん』がすごくよくて、むしろそっちのほうが当時の空気感を表していたと思うし、その後に描き始めて未完になったままの『森』という作品は本当にすごいと思った。それらに比べると『リバーズ・エッジ』は、内側から出てきたテーマというより頭で考えたものに思えたんです。当時、音楽でいうとグランジ/オルタナ系のソニックユースとかに象徴されるように、殺伐としたものがおしゃれだとか知的だと捉えられていた。あの頃、アーティストの間で流行り言葉みたいになっていたのが、「ぼくらは生きながら死んでいる」みたいな言い方で、あれが俺は嫌いだったんです。『リバーズ・エッジ』もそういうものの延長として映ったし、死とか死体に対するスノビズムみたいなものを感じた。死体を上から見下ろして客観的に眺めている、その立ち位置が気になったのかな。
引用元:https://www.houyhnhnm.jp/feature/143284/

よしもとよしともの言う、「『チワワちゃん』のほうが当時の空気感を表していた。」というのは、リバーズエッジの空気感が、当時のものとは違う。という風にも読み取れます。岡崎京子は時代のディテールを描くのが非常に上手な作家です。その為、我々は無意識に彼女の作品が、あたかも当時の時代背景をそのまま鏡映しにでもしたかのような錯覚に陥っていたのではないでしょうか?

わたしたちの世代はとにかく「個性」だ、「自分」だ、と自己主張することが当たり前でそればかりやってきたように思うけれども、今の若い子たちを見ていると「個性」はそこまでゴリゴリ主張するようなものでもなくなっていて、その代わりに何だか知らないけどまわりからは単なる生きものに近い仲の良さが男の子にも女の子にもあるように思う、そして、これからはもう女の子がヘタに元気になるようなマンガは描かないようにしようと思う……
引用元:http://d.hatena.ne.jp/king-biscuit/19960727/p1

彼女が『リバーズ・エッジ』において描いたのは、〝90年代という時代〟よりも、もっと〝輪郭が不鮮明で、言葉では捉え難い何か〟であったと思います。だからこそ、そこに掬い取られた空気感や象徴といった捉え難い何かは、現代の空気の中で息をするように共感され、生き残った作品になったのでは、と考えます。

主人公たちが生きる平坦な戦場

1986年に早川書房から刊行されたウィリアム・ギブソン『ニューロマンサー』はサイバーパンクSFの金字塔とされ、黒丸尚の先鋭的なイカした訳文と、YMOのジャケットデザインも努めた奥村靫正による装丁はそれまでのSFが描いてきた〝未来のイメージの先を行く衝撃〟でした。そのウィリアム・ギブソンによるThe Belovedと題された上記の詩は、物語の終盤、見開き2ページを使って引用されています。

この詩は『リバーズ・エッジ』というモノガタリの種明かし、そのものではないかと思われます。特に、詩の最後にある「平坦な戦場」という言葉は、あとがきの末尾〝平坦な戦場で僕らが生き延びること。〟という一文にもつかわれています。

「平坦な戦場」というコトバは、リバーズ・エッジを読み解く鍵と言えるでしょう。

モノローグを読み解く


『リバーズ・エッジ』を代表する、この鮮烈なモノローグは、物語の始まりの1コマ目と、同じく最後のページ1コマ目に入れられています。

上記のモノローグにある「セイダカアワダチソウ」は、1-2mに達する程に背が高く、糞尿や死体由来の成分を肥料とし土手などの湿地を好んで繁殖する外来性の植物と、ウィキペディアに載っていました。

作中では、「セイタカアワダチソウ」が繁茂する河原が、重要な舞台装置になっています。また、「よくネコの死骸が転がっていたりする」は、作中で、主人公の同級生が子猫を殺す描写が実際にある為、その部分を指しているかの様にも読めます。しかし、リバーズエッジの世界には〝死という概念が登場人物たちのすぐそばにいつでも横たわっている〟という風に読み取る方が正確に思えます。

岡崎さんは雑誌『CUTiE』にこの作品を連載しているとき、「隅々まで管理された社会になったけれど、川原はそこからはみ出た奇妙なエアポケットみたいな場所になっていて、その淀んだ空間の中に何かありそうな気がする」といったことを書いていらっしゃいました。
引用元https://www.cinra.net/column/okazakikyoko_report?page=2

主人公「若草ハルナ」が「山田一郎」に連れられて、彼の宝物である「死体」を見せられるところから『リバーズ・エッジ』の物語は大きく動き出します。

そこはセイダカアワダチソウが生い茂った河原であり、背の高いセイダカアワダチソウは死体の存在を他の人から隠すという重要な役割を担っています。

なぜ都市の近郊に近い河原に「死体」はあるのでしょうか?それは、彼ら(彼女ら)のいる世界こそが「戦場」に他ならないからでしょう。

河原のそばでは、多くの人々が行きかって来た筈ですが、実際にその「死体」の存在を知るのは、若草と山田、そして「吉川こずえ」の三人になります。

ここで興味深いのは、山田と吉川は物語が始まる以前から、「死体」という存在を共有しあっており、二人が同性愛者という部分においても共通点がある事です。

死体によって、三人が共有した時間こそが、後に「僕らの短い永遠」と懐古される、重要な関係性を作って行きます。三人に共通しているのは「死体」を恐れないことです。

三人が物語の中で最後まで生き残ることが出来たのも、死を恐れない力を持っていたからなのではないかと思います。

主人公の若草はこわいとか恐ろしいとか気持ち悪いとかの感情を一応感じた一方、やっぱ実感がわかないと内面で語っています。若草の、実存することの希薄さ、自分の意思を持ちえない部分こそが〝彼女という存在を『リバーズ・エッジ』の主人公〟たらしめています。

彼女は、死に対する実感のなさを含めて、作者によって〝当時の若者を包み込んでいた何かを背負わされた存在〟だったのではないでしょうか。

逆に言えば、彼女の存在に何かしらの答えを与えることが、〝『リバーズ・エッジ』で作者が描こうとした主題〟だったのは間違いありません。

あらかじめ失われた子どもたち


若草ハルナ」とその彼氏「観音崎 峠」との情事後に挿入されるモノローグです。

作中において、若草と観音崎のセックス描写は二回あります。が、そこに描かれているのは観音崎の、感情の発露としてのセックスでしかなく、情事の前後で二人の関係性に何も変化は起きません。

二度目のセックス描写においても、若草は観音崎の持つ暴力性を受け流す為だけに無機質な表情でそれを受け入れています。

それどころか、観音崎は若草の友人「小山ルミ」と性的関係を持ち、妊娠させてしまいます。追い詰められた観音崎は彼女を殺しそうになってしまい、結果として、お腹の中の子どもは死んでしまいます。

「平坦な戦場」では、子猫やお腹の中の子どものような弱い存在は死んでしまいます。子どもを失い精神異常を起こす小山はどこか、大島弓子の漫画『ダリアの帯』の主人公を想起させます。


上記のように、若草は経験としてのセックスを知っていても、セックスを通じて、それ以上のもの(好き、もしくは愛)を獲得する事が出来ていません。
それは、次の、「山田 一郎」とのやり取りにも表れています。

若草が、友人でゲイの「山田 一郎」に質問するシーン。高野文子にも通じる、淡麗な絵柄で描かれた『リバーズ・エッジ』において、異様に生生しい二人のやり取りは印象に残ります。

主人公の次に重要な登場人物として描かれる、同性愛者である「山田 一郎」は、同級生からはホモと揶揄され、観音崎からイジメを受けています。

同性愛者を題材にした田亀源五郎の漫画『弟の夫』は第19回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を筆頭に多くの賞を受賞し、現在では多くの人がセクシャルマイノリティに理解を持っています。また、24年組と呼ばれる少女漫画家たちも、やおいやBLといったジャンルの先駆者として、同性愛者の恋愛を表現しました。

しかし、そこには理解者やそれを受容する世界観が常に一緒に描かれていたのではないでしょうか?

好きな相手にカミングアウトせず、結ばれる事の出来ない彼の存在は時代の閉塞感の象徴であり、あとがきにある「あらかじめ失われた子どもたち」の一人になります。『リバーズ・エッジ』においてセックスは、生や存在の肯定としては描かれていないという事も、物語の重要な要素になっています。

ライターの明かり、「吉川こずえ」という特異な存在


物語の要所で、こちら側(読者の方へ)に語りかけてくる異端の存在。それが「吉川こずえ」です。

彼女は、摂食障害であり人気モデル、山田と同じ同性愛者として、物語が始まる以前から、山田とともに「死体」を受け入れています。彼女は、ともすれば危うい登場人物達の中で唯一、「平坦な戦場」の中で生き残る術を持っているように見えます。

彼女は、他の全ての登場人物達の言葉を代弁する存在に思えます。

そして、彼女はこの物語の主人公が、世界と何一つ繋がりが無い事を告げます。

若草に、山田のもう一つの秘密の宝物(好きな人)を教える彼女は、作者に一番近い場所にいて、物語を必要な場所へと案内する役割を担っているのでしょう。

作者は『リバーズ・エッジ』において、コマとコマとを繋ぎながら、死と生を対比し、あらゆる物事を暗喩的に描く事で、漫画でしか表現しえない物をつくり上げる事に成功しています。その表現技法の、一躍を担うのが「吉川こずえ」です。

彼女は幾度も物語を暗示するシーンに使われます。例を挙げれば、山田がどこかで読者の見知らぬ男の性器に向かって口を開いたその次のコマでは、吉川がピザを頬張ってるカットに変わります。更に吉川が、若草のライターを使って煙草に火をつけたシーンの後に、山田の彼女「田島カンナ」が焼死体となって燃えているシーンに変わっています。

これらの表現技法を重ねていった先、エンディングにおいては、「若草ハルナ」と「山田 一郎」が橋の上で語り合った後、冒頭のモノローグが差し込まれ、最後のコマで、若草の持ち物だったライターに吉川が火を灯しているシーンで『リバーズ・エッジ』の物語の幕は閉じられています。

その明かりの意味とはなんだったのでしょうか?

「若草ハルナ」と「山田 一郎」もしくは無力な王子と王女

「若草ハルナ」と「山田 一郎」には共通点があります。それは二人がそれぞれ、好きではない相手と付き合っているという点です。

山田は、彼女の「田島カンナ」とデートに来た水族館で、心中を語ります。


水槽に閉じ込められた魚たちは、郊外に閉じ込められた彼ら(彼女ら)自身のメタファーだとも読み取れます。山田は同性愛者で、好きな男性がいます。付き合っていた「田島カンナ」という女性もいました。

一方の若草にも、観音崎という彼氏がおり、山田に対し恋心を抱く、またはそれに類するようなシーンは出てきません。にもかかわらず、『リバーズ・エッジ』は「若草ハルナ」と「山田一郎」という、王子と王女。二人のロマンスの物語なのです。

物語のクライマックス、主人公たちが暮らす街を流れる河の上に建った橋の上で「ぼくは生きている若草さんのことがすきだよ」と、山田は言います。若草は涙を流し、涙は河へと落ちていきます。

あとがきによる【その水には彼ら(彼女ら)の尿や経血や精液も溶けこんでいるだろう。その水は海に流れ込んでゆくだろう。】の通り、この河の澱みは彼ら(彼女ら)自身の内面や問題のメタファーと読めます。

しかし、若草の流した涙は、あとがきに挙げられた「尿や経血や精液」の中には入っていません。若草の流した涙は、澱みとは反対の物。 〝彼女自身が戦場を生き延び勝ち取ったものの象徴〟なのです。 その涙が河の中に落ちていく時に、二人の住む街は何か、正常な働きのようなものを取り戻します。

若草の綺麗な涙、山田にとってのUFO、本来あるべき河の向こうにある海の匂い、朝が来ること、それら生きることの希望を獲得したという事を、ライターの明かりが暗示する事で『リバーズ・エッジ』の幕は降ろされています。

『リバーズ・エッジ』は〝あらかじめ(男女として結ばれることを)失われた〟二人の男女が、それでも「平坦な戦場」の中で、二人が求めた繋がりを獲得する物語です。

悩みと痛みを抱え、人の死を乗り越えていかなければいけない「平坦な戦場」。それは未来の若者たちの世界においても、残酷に存在し続けるのでしょう。

そして、『リバーズ・エッジ』は、彼ら(彼女ら)が戦場で生き延びる方法を求め続ける限り、「平坦な戦場」を生き延びた人々の間で、読み継がれていくのではないでしょうか。
(ライター:尾草午後)